花蔵の乱と関係する藤枝に行ってみる 今川義元兄の玄広恵探の足跡

歴史を感じる旅
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今川義元という人物に興味が湧き、長兄の死後に次兄と家督を争った花蔵の乱の関係する跡地に行ってきました。

今川義元というのは、1519年に生まれ1536年に家督をつぎ版図を広げるも、1560年に桶狭間にて織田信長に討ち取られたことで有名な戦国大名です。

小説やドラマでは信長が主役であることが多いため、お歯黒を塗った貴族かぶれの間抜けな武将のように描かれることが多いです。

ただ、実際には今川家の版図を駿河・遠江・三河と最大にし名将と言われる武田信玄、北条氏康と渡り合うなど、有能な武将であったと考えられてます。

花蔵の乱は1536年に今川家で起きた家督争いの総称です。

北条氏との歌絵参列のため小田原に出向いた後、義元の兄で当時の当主である今川氏輝とその後継者の彦五郎が急死しました。

当主と後継者を失ったため当然次の当主をたてなければなりません。

そこで白羽の矢が立ったのが栴岳承芳(後の義元)でした。

天文5年(1536年)5月には室町幕府12代将軍足利義晴からの御内書で今川家を今川五郎(後の義元)が継ぐことが認められています。

ただ、庶兄である玄広恵探が家督相続に異を唱え、葉梨城で外祖父の福島氏と蜂起したためお家騒動が始まりました。

葉梨城は地名から別名花蔵城とも呼ばれています。

最終的に義元方が勝利し実権を掌握しました。

これが花蔵の乱です。

この花蔵の乱に興味を持ったため藤枝まで行ってきました。

藤枝駅で降り花蔵城を目指す

調べた結果、静岡県の藤枝駅で降りるのが史跡に最もアクセスしやすそうであったため、そちらで降りました。

駅から出てみると賑わいのある駅でした。

平均乗降客数は1万人程度くらいで都心から少し離れた神奈川や埼玉の小さい駅くらいの人数が毎日利用しています。

駅前でバスが出ていると調べていたのですが、花蔵城に向かうための葉梨線は年末年始で運休でした。

降りたからには帰るわけにもいかないため歩いて向かうことにしました。

市街地、住宅地を抜けていき1時間程度歩くと蓮華寺池というところにつきました。

藤枝市のサイトによると江戸時代初期に農業用ため池として人工的に築かれたようです。

蓮華寺池は江戸時代初期に、若王子村、五十海村、市部村の農業用ため池として人工的に築かれたものです。

藤枝市, 蓮華寺池公園について, https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/soshiki/toshikensetsu/hanatomidori/gyomu/2/1445918557864.html

雰囲気のいいところでデザイン性の高いスタバがあるため多くの老若男女がいて賑わってました。

駐車場があるため車で来ている人がほとんどでした。

今川家ゆかりの長慶寺に辿り着く

蓮華寺池を越えて更に1時間ほどしたところでようやく目的地の1つにしていた長慶寺にたどり着きました。

長慶寺の看板
長慶寺の本堂

東海道まちあるきさんのサイトに長慶寺の説明があったためURLを貼っておきます。

嘉慶年間(1387~1388年)に今川家三代泰範公が開基として開創され、戦国の大軍師でもある、太原雪斎(たいげんせっさい)和尚が眠る由緒あるお寺です。

ふじえだ東海道まちあるき, https://fujieda.tokaido-guide.jp/location/107
今川泰範の碑、長慶寺開基

私はもちろん太原雪斎のお墓を目当にこちらに寄らせていただきました。

太原雪斎とはですが、今川家の軍師を担った有名な僧です。

駿河の豪族庵原氏の一族で14歳で出家しました。

義元の父である今川氏親の依頼により義元の教育係を任されます。

兄達の急死により義元が家督を継承すると雪斎も軍師として表舞台に出てきます。

家督相続後に北条家との間に河東一乱(1537-1545)が起こり難局を乗り切るために武田家と同盟を結ぶのですが、その同盟は雪斎が取り仕切ったと言われています。

その後もいざこざは続いていたのですが膠着状態となり、戦を続けるよりも同盟を結んだほうが利益があると判断した今川家、武田家、北条家は1554年に同盟を結ぶことになります。

世に言う甲相駿三国同盟ですがこちらは雪斎が仲介したと言われています。

今川泰範の五輪塔(左)、太原雪斎の無縫塔(右)

この太原雪斎が眠る長慶寺ですが、その場所は藤枝駅から2時間近く歩いているため当然田舎で周りは一軒家がぽつぽつと建っている感じでした。

観光客などいないのでお墓参りに来た方々とすれ違うと少し恥ずかしいです。

遍照寺・八幡神社を経て登山口につく

長慶寺を出発し30分ほど歩いたところで遍照寺・八幡神社にたどり着きました。

まず先に見えたのが八幡神社です。

八幡神社の入口、鳥居
八幡神社の本堂

八幡は各地で祀られていますが、出世開運の神として知られています。

少し通り過ぎたところに遍照寺がありました。

遍照寺の本堂

2代目の今川範氏が1356年に創建した寺で、今川氏の氏寺として機能しました。

しかし、1536年の花倉の乱で大伽藍等が焼失、1568年に武田氏の兵火を受け失われたそうです。

その後1577年に再建され現在に至ります。

そのせいか3国を支配した今川氏の菩提寺であったとは思えないくらい小さなお寺でした。

脇には今川範氏と嫡子である氏家の墓地がありました。

今川範氏・氏家の墓

遍照寺を後にして30分ほど川沿いを歩くと花蔵城跡への山道入口の看板が見えてきます。

看板の矢印の方向に進むと茶畑があるため、その間を抜けていきます。

茶畑の人とすれ違いましたが見知らぬ私にも挨拶してくれました。

山道入口付近の茶畑

上の写真の景色のすぐ後ろに山道がありました。

花蔵城跡につながる山道

花蔵城跡まで登る

13時頃だったように思います。

最初のうちは登りやすいです。

登り始めてから30分くらいは茶畑が続くため整備されているようです。

ただ季節の問題かのどかに歩けない大きな銃声がするエリアがあるため注意です。

茶畑の害獣対策の音声だと思うのですが、定期的に大きな銃声がします。

構えていてもびっくりするレベルの音ですので、早く抜けたいエリアです。

茶畑がなくなってくると整備されていない道になります。

登り続けると花蔵城跡に至ります。

花蔵城跡に到着

14時頃だったように思います。

花蔵城跡に到着しました。

花蔵城跡の全容は先ほども引用させていただいた下記サイトが分かりやすかったためご参照ください。

花倉城跡は市指定史跡になっており、駿河国主となった今川氏が葉梨周辺を治めるために築いたと伝えられています。

ふじえだ東海道まちあるき 花倉城跡, https://fujieda.tokaido-guide.jp/location/106

歴史的には、花蔵城は天文5年(1536年)の花蔵の乱の最後の戦いがあった場所です。

花蔵の乱については冒頭で簡単に記載しましたが、玄広恵探は拠点を構えていた花蔵城を岡部親綱に攻められて敗北しました。

その後逃げた先の普門院にて自刃しました。

花蔵城跡を周ってみると本曲輪、二の曲輪、帯曲輪、堀切などの跡を見ることができました。

帯曲輪とは、防御力強化のために伸ばした帯状の曲輪のことです。

先ほどあげたサイトの画像を参照してもらうとどれのことかよく分かると思います。

堀切は山の尾根を伝って攻め込むことができないよう尾根の途中に掘られた堀のことです。

下記撮影した写真を掲載しておきます。

花蔵城の土橋跡の案内棒

下のは何を撮ろうとしたのか忘れてしまいましたが帯曲輪でしょうか。

花蔵城跡1
花蔵城の帯曲輪跡の案内棒
花蔵城の土塁跡の案内棒
花蔵城の堀切跡
花蔵城の二の曲輪跡
花蔵城の土塁跡
花蔵城の本曲輪跡
花蔵城の本曲輪跡2
花蔵城の本曲輪跡3
花蔵城の空堀跡

下山し高山寺に辿り着く

花蔵城跡を過ぎて稜線に沿って歩いてすぐのところに景色がいい広場があります。

景色のいい広場からの景色

こちらでお昼にするといいと藤枝市のハイキングマップに記載があったためこちらでお昼にしました。

大した山ではないですが、カロリー・塩分・糖分を取ります。

日の入りまでに下山したかったため、早めに昼食をすませ下山を再開しました。

進んでいくと途中で烏帽子形山山頂への分岐があります。

2度と来ない可能性があるため寄り道しました。

その分岐からはそれほど時間かからなかったように思います。

烏帽子形山の山頂1
烏帽子形山の山頂2

ちなみに山頂の先にルートらしきものがあったのですが、あまりに急坂だったためそちらは降りずに分岐まで引換しました。

分岐以後は基本的に下りです。

下りなので苦労することはなかったのですが、足場はぬかるんでいて悪かったです。

1時間ほど降り続けると舗装された道に出て下山完了です。

舗装された道を少し進むと民家が出てきてその中心地あたりに高山寺がありました。

高山寺は弘法大師こと空海が創建した寺と言われています。

1160年には伽藍が完成した大寺であったそうです。

1536年の花蔵の乱では花蔵城を攻められて堪えきれなくなった玄広恵探はこの高山寺に逃げ込んで瀬戸川で必死に防戦しました。

その中で兵火を免れられず灰燼に帰したとのことです。

その後1571年に再建され今に至ります。

私は2022年12月30日にこの寺に着いたのですが残念ながら本堂は灰燼でした。

高山寺の焼跡

どうやら訪問1日前の2022年12月29日に火災があり全焼してしまったようです。

二十八日午前二時十五分ごろ、藤枝市本郷の高山寺から出火、木造平屋約三百平方メートルを全焼した。戦国時代の今川家ゆかりの古刹(こさつ)。一人暮らしの男性住職(55)は逃げて無事だった。

今川家ゆかりの古刹 藤枝・高山寺が全焼, https://www.chunichi.co.jp/article/609509

見ることができなかったのが非常に残念でした。

高山寺の焼跡2

瀬戸口橋を渡り恵探終焉の地へ

高山寺の周りを流れている川に瀬戸口橋がかかっているため渡ります。

渡ったらある大きな道路沿いに進んでいくと恵探の終焉の地に辿り着きます。

この平坦は思ったより長くて山登りを終えて燃え尽きモードに入っている心にはきつかったのですが気合で1時間ほど歩きました。

玄広恵探の終焉の地
玄広恵探の終焉の地の立て看板
玄広恵探終焉の地の墓石
玄広恵探終焉の地の無縫塔

玄広恵探はこの地にて19歳でその生涯を終えました。

瀬戸谷温泉ゆらくで疲れを癒やし藤枝駅にバスで帰る

恵探終焉の地から30分以上歩くと瀬戸谷温泉ゆらくにたどり着きます。

山々の深い緑と瀬戸川の清流に囲まれた日帰り温泉。

瀬戸谷温泉ゆらく, http://yuraku.tv/

こちらからは藤枝駅行きのバスが出ておりますので、汗も洗い流すことができゴールとして相応しい場所と思います。

12/30だったからかもしれませんがそれほど混雑しておらず、地元のおじさんたちがのんびりとお風呂に入って談笑してました。

サウナもありました。

ゆらくを出ると辺りは真っ暗で冷えきってました。

バス停で凍えそうになって震えていたら運転手さんが声かけてくれて先にバスに乗せてくれたので、お言葉に甘えて乗り込み藤枝駅に戻りました。

藤枝旅を終えて

10時から18時30分くらいでしたので全工程で8時間30分でした。

行きのバスがなかったため暗くならないうちにと思い少し急ぎ目であるきました。

長慶寺を越えたあたりから私以外には1人も観光者、登山者はおらず、のんびりできたものの道が不安になり心細い時間もありました。

ただ最終的に辿り着くゆらくでの達成感がすごく満足な旅でした。

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